その後のサファイアとブルー。
「あの子はいいわよね、あたしたちが生きていくことを知っているんだもの」
まだ結婚していないころ、サファイアは後に旦那となる男性とのデートでとある演奏会に出席したことがあった。この台詞は、そのときのピアノ奏者だった女性がぽろりと零した言葉である。
サファイアは今まであまり音楽に興味がなく、その演奏会もたくさんの楽器が入れ替わり立ち代わり、ステージの上で華やかな音色を奏でていたというくらいしか分からない。けれどもそのひとつひとつは素晴らしいものだったし、特にピアノとヴァイオリンを担当していた女性は、その音色もさることながら、目を引くほどの美貌の持ち主だった。長い髪に、すらりとした身体、はっきりとした目鼻立ち。サファイアはとてもその女性が気に入ってしまって、演奏会が終わったあと恋人をほったらかしにして、その女性と話し込んだのだった。
いま思えば、サファイアが惹かれたのは、その美貌でも演奏の技巧でもなく、彼女にどこかしら陰りがあったからかもしれない。サファイアよりも十近く年上の彼女は美しいだけでなく、明るく優しく、ちゃっかりしているところすらもユーモアを感じさせる、まさに理想像のような女性だったのだけれども、ふとした瞬間表情には暗い影が過り、彼女の奏でる音色はあまりにも悲しく響いた。ことさらヴァイオリンの音色はそうだった、とサファイアは思い起こす。率直にそう伝えると、彼女は微笑んだ。それはとても優しい笑い方だったけれど、どこか寂しそうだった。
「これは、十年前に死んだ弟のものだったの」
あの子も音楽が好きでね。あの子が弾けなかった分を弾きたくて、ヴァイオリンをはじめたのよ。
悪気が無かったこととはいえ、良くないことを聞いてしまったとサファイアは謝罪した。すると、彼女はいいのよ、とにっこりと笑って、それから独り言のように、冒頭の台詞を口にしたのだった。
以来、サファイアは彼女に会っていない。結婚や妊娠のドタバタでなかなか演奏会にも行けず、落ち着いたと思えば遊び盛りの子供の世話にてんやわんやだ。けれども、定期的にネットで彼女の活動を追っていたし、彼女のCDは気づき次第必ず買った。サファイアのお気に入りは、一番古いアルバム"My sweet home", それについ最近出たばかりの"Long, long ago"。不器用なほどに悲しくいとおしい彼女の音色も好きだし、安らぎと優しさに満ちた最近の彼女の音色も好きだ。最近のインタビューで、弟について聞かれた彼女はこう答えていた。「弟はヴァイオリンをやっていたの。あの子の音楽は真っ直ぐで、繊細な音だった。あの子の分まで弾きたいと思ってヴァイオリンをやってきたけど、どう頑張ったってあの子の音楽はあたしの音楽じゃない。けれど、最近はこうも思うの。あたしが音楽を続ける限り、あの子はあたしと一緒にいるんじゃないかって」。
サファイアはルビーを思い出す。あの日中学生の彼は知っていただろうか。サファイアがこうして生きていき、ルビーでない男と結婚し、子供を産み育てることを。それはサファイアのように取り残されるよりもずっと、しあわせなことだったのじゃないかと、今になって思う。そしてサファイアだっていつかは彼のように死に向かう。きっとその瞬間に、自分が死んだあとも、大切な人たちが生きて行くことを理解するだろう。目を閉じる。
いま、あたし、しあわせったい。
そして彼女は呟いた。そのとき初めて記憶の中のルビーが、笑っているような気がした。