あたたかな梅雨の夜長である。旅館の渡り廊下から見える中庭には、夜露を吸ってしっとりと項垂れる紫陽花や、池の周りに群れる女郎花が盛りを迎え、それらの花の香をたっぷりと含んで膨らんだ夜気が、グリーンの鼻の先まで漂ってくる。夜の分厚い霧の底、無数の水の微粒子のひとつひとつに、香りという香りがぐっと濃縮され、それが一度息を吸うごとに身体の芯に染み込み、足下から重たくしていくようだった。
ほんの数分前には、真夜中に目覚めたきり眠れず、冷たい水でも飲みに行こうと寝床から起きだしてきたというのに、その帰りの道で、グリーンは早くも自ら眠気を催してきたのを自覚するが、歩みは変わらず気怠い。足を踏み出すたび、きし、きし、と一定の感覚で足下の板が軋む音すら子守唄のように耳に馴染む。とろとろと溶けるような頭で、彼は感覚を頼りに自分の寝部屋の前まで辿り着いた。
グリーンが襖を開けると、背にした月の光が音も立てずに部屋の闇に差し込み、大部屋に眠る面々の姿を青く照らし出した。彼と同年代ないし年下の、何にせよ子供の域を脱さない少年少女たちの、あどけない寝顔があらわになる。それは男女の違いに関係なく似たようなもので、ぼんやりと立ち尽くしていたグリーンは、知らずのうちに微笑む。子供たちは、一面に敷かれた布団の上に所狭しと手足を投げ出し、規則的な呼吸を繰り返している。彼らを跨いでいかなければならない、とグリーンは眠い頭で考えながら、しかしそれすら億劫におもい、楽に自分の寝床まで辿り着けそうな道を視線だけで探していると、闇の中に浮かび上がった真っ白いものに目が留った。
(……?)
半ば閉ざされかけていた目を凝らし、そのものの正体を見極めようとしたのは、単に反射に過ぎなかったが、ちょうど雲の合間に差し掛かった明るい月の光がするすると降りてきた。みるみるうちに、そのものの周辺に満ちていた闇が引き潮のように退き、白いものがぽっかりと暗がりに浮かび上がった――二本の腕、である。
更に見れば、その全体は一組の男女であることがわかった。白い腕は、少女の円い曲線を描く肩からしなやかに伸びて、夜の暗がりに溶け込む少年の黒い服に絡み付いている。少女は少年の背中から腹に腕をまわし、少年の長い赤髪に鼻先を埋めるようにして、深く寝息を立てていたが、少年のほうはまるで死んでいるかのように動かなかった。
視界のどこかで光が閃いた。意識をそちらに向けると、青白い光をきらりと反射する少年の銀の双眸が、黙りこくってグリーンを見つめていた。
庭先から漂ってくる花の香が、なおもグリーンの頭を麻痺させている。彼は最早思考を放棄した頭で、暫し少年と視線を交わし合った。半分は眠っているような、不思議な感覚だった。それは、ほんの数秒であったようにも、一時間もそうしていたようにも感じられた。
空を覆う濃霧に月が再び隠れ、部屋へ差し込む光がぼんやりと微弱になったとき、グリーンは意識を取り戻した。見れば、いつしか少年の銀色の目は閉ざされ、少女――少年が姉と慕う彼女――と同じく、緩やかな律動で寝息を立てていた。ふと視線を斜めに傾けると、ちょうどよく自分が寝られるだけの余地がある。グリーンはようやく部屋の中に入って襖を閉め、重たい足を持ち上げた。